昭和45年2月19日朝の御理解
X御理解第四十二節「これ程信心するのに、どうしてこういう事が出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これは未だ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。」
これ程信心するのに、どうして、こういう事が起きるだろうかと、いうような思い方をする時には、信心は止まっておるんだと。これは、まあだ信心が足りぬのだと、これはまあだ自分の一心が足りんのだと、まあだ自分の修行が足りんのだと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。そこからのおかげが素晴らしい。そこからのおかげが、いわゆる信仰体験である。そこからが、極楽の入り口なのである。ですから、お互いが、これ程信心するのにという、どれ程の信心をしたら、これ程という事が出来るであろうか。どういう程度の時に、これ程と言うておるだろうか。これ程という、そして、それからという、その境はどの辺なのであろうか。
私は、こんな風に思うのです。今日の御理解は四十二節、これをしに節というてもいいと思うのです。だから、これ程という事、又そこからおかげが受けられるという本当のそこからのおかげは、私共がいうなら、白紙に返った時。いうなら、過去の一切をなげうてた時、いうなら死んだ気になった時、そこからです。無尽蔵のおかげが約束される。限りないおかげが約束される
無一物の中から限りない、いわゆる無尽蔵のおかげ、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられるとおっしゃる。そういう事だと思う。ですから、そこまで行かなければ、これ程信心するのにとは言えない。まあだ、我情我欲でいっぱい、自分の思いひとつ捨て切らず、我欲ひとつ捨て切らず、そしておいて、おかげが受けられんなんて、どこを押せば言われるかという事になるのです。
昨夜、お月次祭が終わりまして、昨日がここの若い修行生の方たちが、お山にお滝の水を頂きに行く、昨日一昨日が満願でした。それで昨日は、無事で修行を終わらせて頂いたお礼の願行の為に、いうなら、参っております。
皆が帰って来るのを待たせて頂いておりました。そしたら、皆が帰って参りました。それはもう、本当にいうなら、大変な修行ですけれど、昨日はお礼の為に修行にやらせて頂いたらね、四人行って居りましたが、四人が四人、口を揃えて言われる事は、今日は滝壺から出とうなかごと有り難かったと、今日ばっかりは、お湯のごたると言うと、あんまりすぎるでしょうから、兎に角、湯気が立つごたる気がした。滝壺の中で、一生懸命大払いを上げ御祈念させて頂いておるとね、もう覚えんごとなって、出てくる時にはもう真っ青になって、出てくるのに、昨日だけはですね。もう暖かいものに包まれて居るというか、抱かれておるとい感じでしたと皆言うとります。
私は、それ聞かせて頂いて、ここは通った者でなからにゃ分からん。もうこれで、お滝の水にかかりに行くような修行はせんでもよい、という気がしたというております。これだけ有り難く、しかも楽に、滝壺から出たくないようにあった。これは、表行の中から感じとらせて頂いた、いわば一心に信心してゆけば、そこからおかげが頂けれるという、そこからのおかげがです、そこに感じてきた訳です。それ迄はまあだこれ程とは言えなかった。
二日行ったばってん、一週間行ったばってん、ひとつも有り難くなれなかったと、例えば、これ程信心するのにと言おうごとあったけれども、その願行が満願の日を迎えて、しかもそれが御礼としてです、もう一日やらせて頂こうじゃないかという事になってきて、やらせて頂いた日は四人が四人それを言っておる。今日は何かしらん湯気が立つ思いだったと、という事は、やっぱお湯をかかっとるという思いでしょう。
それこそ、暖かいものに包まれておる実感でした。
私はそこからのおかげというのは、だから、一心に信心してゆくというても、そこのところの道が開けてくる、心が開けてくる修行に取り組まなければいけない。
金光様の御信心は、そういう例えば、水をかかったり、火の行とか水の行をして心を開いていくという事が信心ではないのです。
けれども、例えば私の心の上にもです、いわゆる心行、此の方の行は表行より心行とおっしゃる。心の行という事が本当に苦しい苦しいと思うておったがです、その修行をやりぬかせて頂いた向こうには、このようにも楽な心、此のような中にこのような有り難い心が例えば、寒中に水ごりをとる、しかもお山の水のようなお水を頂いておるというのですから、それが暖かいものに包まれておる実感。
心にする修行だって同じ事、日常生活の上に頂いておる修行だって、この様な難儀な事があろうか、この様に冷たい思いをする事があろうか、本当に帰って来る時には、血の気もない真っ青になって帰って来るという程しの、今日一日も大変な一日であった、そういう一日の中にです、その事がです、本気に修行として取り組まれいく時です。
そういう中にです、暖かいものに抱き抱えられておるような実感。冷たい水ではない、それこそ湯気の立つような思い、心温まる思い。そういう心が開けてくるという事です。そこからのおかげ、そういうおかげがです、無尽蔵につながる心だと思います。
それを例えば、そんなら厳しい言葉で申しますと、一生懸命と言う事でしょうし、一生懸命という事は私は死んだ気でという事だと思う。
もう例えば、死んだ気でおる、財産でもこの財産にしがみついとるから、その持っておる財産の為に夜もろくろく眠られんという事になってくる。そこからです、次々とおかげの受けてゆけれる道が開けて来る。
或る青年が仙人になりたいと思うた。それで山に登って仙人に会って、自分を仙人の弟子にしてくれと願った訳です。
それでも許さなかったけれども、強いての頼みであるから、そんなら、自分の言う事を聞くならば、弟子にしてやろうという事になって、そんなら、ひと試験してみろうという事になった。
それから、仙人と共に山の崖っぷちみたいな所に一本の松の木がある。仙人はその青年の弟子に向かって、あの松の木に登れと、それで、仙人の弟子入りをしなければなりませんから、言われる通りに松の木に登った。
下を見ると、もうそれこそ、千尽の谷、そういう崖渕にある一本の松の木に登らされた。それだけでも足が震いそうになる。
そしたら、仙人がそれを下から見ながらいう事には、自分の枝に掛けておる足を外せとこう言う。右の足を外せ、左の足を外せとこういう訳である。とうとう両手でぶら下がる結果になった。ところが、又今度は右の手を外せとこう言う。もう片一方の手でぶら下がっておる。さあ、その左手を離せと、こう、これを放したら、もう命がない、放されんと言う。放されんと言うてそのまましておけば、もう、この手がしびれてしまって、もう無我夢中で落ちてしまって、そのまま谷に落ちて死んでしまわにゃならん。そういう事では仙人にはなれんぞと、気合を入れられて、さあ右の手を放せ、さあ最後の手をはずせと号令をかけるように、いわれた途端にはずした時に、右の手は次の枝をつかんでおった。足は次の枝につかまえておった。これがどうだろう。もうはずされんと言うてぶら下がっておったら、もう覚えんようになってそのまま落ちてしまうだろう。それが仙人になるコツだと言うて話したという話しがあります。
自分でなあにもないという。いわゆる、無一物になれという事なのである。自分にあれが有り、これが有るからいけないのだ。
それはそんなら、どういう事かと言うと、死んだ気になるという事。
まあ、死んだ気になるという事は、そんなに難しい事じゃない。お道で言う死んだ気になるという事は、そんな難しい事じゃないけれども、理屈は同じだ。ところが、なかなか出来ません。
昨日、山から帰って参りまして、十人余りの者が待っておりました。それで今日は最後の修行を終わらせて頂いたお祝いに、一献差し上げてと言うてから、取って置きのお神酒がありましたから、それを皆に頂いてもらった。
中でいろいろと信心のよもやま話が出ておりました中に、博通君がこんな事を言っておるのです。その気になったら、出きん事はないて、その気になったら、例えばです、そんなら一年なら一年前に、なにもかも捨てて御本部へ行けと言われたら、絶対出来なかっただろう。
ところがね、もう、あれでもいけん、これでもいけんと、兎に角自分の力の限界というのを知ったのです。そして、進められるままに、半信半疑で入ってです、その気になって入ってみたところが、これは楽な事だという事になった。いや楽な事というよりも、楽しゅう信心修行が出来るなという事であった。本気でその気になった。ですから、これが、あれも放した、これも放した訳です。
いわゆる、仙人の弟子入りが出来た訳です。そして、放してみれば、こんなに楽な事はない。放す迄がです、まあだ自分は若さが有る。
あれもしたい、これもしたい。まあだ、生きてる間にあれも食べてみたい、これもしたいというような欲望が一杯あったところに、とても金光様の先生てんなんてん、思いもつかなかったんですけれども、実際入ってみたら・・・・
まあだ、それでも、歌の文句じゃないですけれども、何にもなかった者と思い別れましょうという未練、という未練が又ね、出て来るような場合がある。浮世離れて奥山住まい、鹿の鳴く声聞けば昔が恋しゅうてならん。というように、もう世間とは切り離した自分だという事になっておっても、たまにはね、過去の昔が恋しゅうなるような場合もありましょう。人間ですから。
もうこれぎりだという未練も、そこには残りましょう。けれどもね、そこのところをです、これはまあだ、一心が足りんのだと、そこのところの信心を一心と進めていけば、そこからおかげが受けられる。
例えば、私共が表に出る事がないという位、いわばここ畳み半畳に座り込ませて頂いて、ああもうとても、久留米に行きたいと思うても行かれん、ちょいと、福岡まで行きたいと、思うても行かれん、もうそげな窮屈な事は出来んと脇からみたらあろうけれども、実を言うたら、ここ畳み半畳の中にこそ、私の世界があり、いわゆる、わが心の中に世界があるというように、広々とした自由自在な世界がここに有るという事。座ってみな分からん。博通君が、そんなに難しいもんじゃあないというのである。
放してみて初めて、難しいもんじゃないと分かる。放す迄が難しい。いわゆる、死んだ気になる迄が難しい。死んだ気になったら、後は楽だという事です。そこからです、無尽蔵のおかげが約束される。無一物の中から無尽蔵のおかげ。あれも外すまい、これも外すまい、結局苦しい時には、さあ足を外せ、手を外せといわれておる時なのです。
はあー、ほんにそうだ。あん時死んだと思うたらと、あん時に言うなら、まる裸になったと思うたらと、いうなら、それを自分のものだと、思うておるところに難儀が有るのだ。これ程信心するのにどうして、こういう事が出来るであろうかと思えば、もう信心は止まっておる。もう何年信心させて頂いておるけれども、一向よか事がない、という事はまあだ言うなら、一生懸命が足りんのだという訳ですけれども、その一生懸命とはどういう事か。言葉でいうと大変厳しいようにある。死んだ気という事。一生懸命という事は死んだ気でという事。何もなかった昔という事。生まれて来る時は裸で生まれて来とる。何一物持って生まれて来てない。
しかし、それを外してしまえば、食べられまいもの、さあ、食べられるか食べられぬか外してみれというのである。それがなからねば、生きてゆけんように思うておる。そこに争いがある。そこに欲望が渦巻くような苦しい世界が有る。
そこを、信心で外してゆく事をです。我情我欲を放れてとこうおっしゃる。
そのつどつどに、一辺に放さんでも、さあ片一方の足を放せ左の手を放せというように。ひとつひとつ、そこんところの稽古をさせて頂く。
いわゆる、我情、自分の思いを捨ててい稽古をさせて頂く。信心のない間は、もうあれもお願いします、これもお願いしますと、言うては一杯自分の欲望のたけを、神様の前に並べ立てるのが、信心のように思うておったけれども、成る程、あれもこれもと願う事は、願うておったけれども、後はあなたにお任せするという信心。そこにはもう、我情を捨てた姿、右でありますようにと、願いながらも、願ったら神様にお任せをする。だから後は、神様が右にしてくださろうが、左にして下さろうが、神様の御都合として、それを頂いていくという心。そういう心の状態を段々高めていく。
いわゆる、我情我欲を放れていく稽古を本気でさせてもらう。こげんも楽になる、そのこんなにも楽になる。そこからのおかげ。
山のお滝に水を頂きに行く。いついつ迄と、願行、いわゆる願いをかけて、その満願の日まではそれこそ、もう最後の日なんかは、大変な苦痛であったというけれども、満願を終えて、その翌日、お礼に出らせて頂いた時には、それこそ、滝壺から出たくない位な有り難いものであったと。
その辺のところにですねえ、もうそれを、私は聞きながらね、信心はそれじゃて、そこ迄いった時に、信心はいよいよ有り難い、楽しいものになってくると、
だから、そこ迄いった時がです、これ程の信心が出来た時であり、そのところの境がです、これはまあだ、信心が足りんのじゃと、一心と信心してゆけば、そこから楽になれる、そこからおかげが受けられると言う、一線上のそこを越える迄が信心なのだと。
これは表行の事ですけれども、心行の上にもそれが言えるのです。現在持っておる難儀、悩みというものを、難儀をせずに、修行としなければいかん。その修行をやってやってやり抜こう、頂き抜こうという姿勢になってです、それを修行と思うて頂き抜く、その向こうにです、いわば、最後のところ迄は、大変な苦しみであろうけれども、そこをひとつ乗り越えるとです、このような有り難い修行がまたとあろうかという事になってくる。
そこからおかげが頂けてくる。そこから無尽蔵な、限りないおかげがおかげが頂けてくるようになり、限りないおかげにつながってくる事が出来る。
そこのところが、無一物のなった時、もう何もない、只、有り難いばかりだという事になってくる。だから、折角信心さえて頂くのですから、そこ迄の信心。だから、これ程と言う場合、これ程信心しよっても、おかげ頂ききらんという場合はです、まだ一生懸命が足りんのであり、まあだ、いわゆる修行中だという事なのです
その修行を頂き抜く覚悟、決心が出来たら、博通君じゃないばってん、そげんきつい事ではない、実をいうたら、こんなに楽な事はない。いうなら、こんなに有り難い事はない。私のような者でも有り難いなあというものが、これから開けてくるといったような気がする、という訳なのである。
その中から、いよいよ本当なものを求めて、進んで行こうという事になる訳です。
白紙になるとか、無一物、死んだ気でという事は、そういうような事、そこから頂くおかげが、一切、あなたのおかげという事になり、そこから一切どれだけ沢山のおかげを頂いても、すべてがあなたのおかげでという事になり、そこに、我のない世界、あなたのおかげでという世界が、開けてくると思うのです。どうぞ、ひとつこれ程と、そからという事。これ程という事と、そこからおかげが受けられるというところの境というか、峠を越えさせて頂くところからです、おかげが受けられる。そこに、一心を求められる時であり、いわば、ははあ、ああいう時が死んだ気でという事であろうというのである。
ああいう時が、吾無力であるとか、吾無一物であるという、私のものや、私の考えや何もないという時、白紙にかえる。そこから、受けられるおかげ、そこからのおかげをひとつ頂きたいですね。どうぞ。